テレビとネットの横断業界誌 Media Border

2020年01月号

この国のテレビは、未来を選べなかった。〜2020、テレビのディスラプションが始まる〜

2020年12月31日 11:13 by sakaiosamu
2020年12月31日 11:13 by sakaiosamu

2020年になった。MediaBorder読者の皆さん、明けましておめでとうございます。

そう、数日前世界は2020年代に突入した。だがこの国のテレビはどうだろう?ひょっとして2010年代のままではないか?いや下手をすると、ずーっと20世紀に留まったままだったのではないだろうか?

などと思い切りネガティブなことを明るいはずの年始に書いてしまうのも、昨年12月のNHK同時配信の決着を引きずっているからだ。いや、引きずっているというより、ここ数年世間や業界に訴えてきたことがすべて無に帰したような挫折感に打ちひしがれているのだ。

NHK同時配信騒動の意味は?

この国のテレビは、未来を選べなかった。 2010年代の終わりに、2020年に羽ばたく準備ではなく、10年逆戻りする選択を、日本のテレビ業界はしてしまった。選択をしたのは、総務省であり高市大臣だが、NHK自身でもあり、高市大臣にアピールし続けた民放連でもある。つまり日本のテレビ産業のステークスホルダーが選択したのだ。NHK同時配信は常時ではない、という選択をした。

一つのテレビ局が、同時配信を常時でできない、という結果がそこまで言うほどの大きなことなのか?と問う人もいるだろう。大きなことではないかもしれないが、日本のテレビが新しく生まれ変われるかを象徴する事象だと思う。NHKが同時配信を常時行う。たったそれだけのことを4年間も寄ってたかって話し合ってきて、ギリギリで肝心の部分を制限してしまう。そこにこそ日本のテレビ業界の20世紀ぶりが表れていたと私は捉えている。

もう、先へ進めないのだな。いやもはや、終わったんだ。というのがため息とともに漏らしたい私の感想だ。

滑稽だと感じてしまうのは、一方でいま日本中の民放が空前絶後の前年比ダウンにオタオタしていることだ。放送に回ってくる広告費がいま大幅に減っている。来年も再来年も戻っては来ないだろうし、そのことを民放経営者もすでに覚悟しているはずだ。

そうなると、もうテレビ局はネットに出るしかない。でも自分でやるのはコストがかかるし、当面はそのコストをカバーできる収入は望めない。だが間違いなく、テレビ局はこれからネットでの稼ぎ方に挑戦するしかないのだ。

だったらとりあえずNHKに先を行ってもらって様子を見てもらったり、何をどうしたらネットで視聴されるのか、データはどう収集できるのか、などなどなどをやってもらったほうがいいに決まっている。やってもらう時はいまだったはずだ。

それなのに、どうしてテレビ業界はストップをかけたのか。高市大臣に待ったをかけさせたのか。不思議で仕方ない。なぜ沈む船に新たな空気を送り込む可能性を自ら絶ってしまったのか。20世紀を生きてきた本能が止めさせたとしか思えないのだ。

少し具体的に書いてみよう。例えば1月2日にNHKで恒例の「新春TV放談」が放送された。あそこにも「今のテレビの終わり」がにじみ出ていた。

YouTubeがメインカルチャーの時代に入った

この番組では毎年、ドラマとバラエティに分けて番組のランキングを調査している。今回は初めて、ネット配信の番組も入れたランキングを発表した。結果、ベスト10には配信コンテンツは入らず、20位まで広げた中に「ウォーキング・デッド」がランクインしただけだった。配信コンテンツ、大したことない。と受け止めるのは間違いだ。ランクインしたのが「ウォーキング・デッド」という、配信コンテンツではもはや古典中の古典で”今さらこれ?”というタイトルだったことが重要だ。老若男女、10代から70代までに聞くとこうなるということだ。

番組では後半、ネットの話題が延々語られる。そこにこそ”変化”がある。去年は「おっさんずラブ」が視聴率では低かったのに話題となりプロデューサーの貴島彩理氏が出演したが、そこからもさらに進んだ。「新春TV放談」がネットの話題をこってり取り上げるほど、配信コンテンツが比重を高めたということだ。

これは番組中で紹介された「YouTubeチャンネルを開設した著名人」のリストだ。よくカジサックや中田敦彦がYouTuberになったことが話題に上るが、もっと次から次にタレントたちがYouTubeデビューしている。嵐もすでに236万人の登録者を集めている。

YouTubeはもはやHIKAKINやはじめ社長のような特殊な若者たちの場ではない。もっと裾野が広がっている上に、これまでテレビを舞台としていた人々がなだれ込む場になっている。YouTubeはサブカルチャーではなくメインカルチャーであり、ネットという場はもうメジャーなのだ。テレビはすでに取り残されようとしている。

だからこそ、2020年代突入とともにテレビはネットに参加すべきだった。同時配信というテレビ放送そのまま、電通・奥律哉氏が言う「何も足さない。何も引かない。」状態で配信せねばならなかった。カジサックや中田敦彦には遅れたが、いまならしれっとネットに出てきても間に合った。NHKだけでも「常時」で参加する最後のタイミングだったのだ。

テレビはネットに入りそこねた。いや、TVerがあるじゃないかと言う人もいるだろう。もちろんTVerは今後伸びる。だがTVerはテレビではない。それがよくわかっているから「TV」に「er」をつけたのだと思う。TVする者、つまりテレビの一部をオンデマンドで届けることはできてもテレビそのものではない。TVerに同時配信が乗れば「同時配信+見逃し配信」というネット上のテレビになれたはずだ。同時配信が真ん中にないと、TVerはいつまでもテレビではない。試しにTVerを知っている若者に「テレビはネットで見られるっけ?」と聞けば十中八九「見れない」と答えるはずだ。TVerを日々使う人も、それをテレビとは認識していないだろう。

ネット上では同時配信こそがテレビなのだ。リビングの受像機と同じように、ボタンを押したら今流してる番組がパッと見られるのがテレビだ。それができないと意味がないし、広告費を稼げる場になれない。スポットがぐんぐん減っているからこそ、同時配信を真ん中にネットで広告費を稼ぐビジネスモデルを構築する時なのに、NHKが自分たちを脅かしていると大誤解して常時を制限してしまった。取り返しのつかないことをやってしまったのだ。

才能は生き残る。テレビは生き残れない。

「新春TV放談」に話を戻すと、YouTubeはじめネットのパワーがいかに大きくなってきたかを語るのだが、意外にそのトーンは明るく前向きに見えた。ヒャダインやバカリズムのようなテレビ局に属さない才能たちだけでなく、テレ東・佐久間Pや日テレ・鈴間P、テレ朝・弘中アナの三人も面白げにYouTubeを語る。なぜかわかるだろうか。彼ら彼女らは、テレビがネットになっても面白いコンテンツを作る人びとだからだ。鈴間PはYouTubeでバズるドラマを作れと言われたら、嬉々としながらちゃんとクリアするだろう。佐久間PはYouTubeでも表現コードギリギリの番組に挑むに違いない。弘中アナに至っては自分のチャンネルを開設したら既存のYouTuberを凌駕する人気者になるかもしれない。そしてそれぞれがYouTubeもしくは他のネットの場でビジネス化できてしまうのだと思う。優れた作り手にとって、テレビという場は必ずしも必要ではなくなっている。

つまり、いま起ころうとしているのはそういうことだ。テレビが取り残されるとはそういうことなのだ。テレビ局が営々と築いてきたビジネスモデルが終わるだけの話で、そこを舞台に活躍してきた才能たちは場を移すだけ。テレビ局という重たい設備がポツンと残ってしまう。

皮肉なことに、テレビがネットに出ないことを選んだ先には、ネットがテレビを突き放す結末が待ち構えている。テレビが未来を選んでいれば、テレビ局の箱を保ちながらソフトランディングできただろうに、ハードランディングに向かってしまう。いやテレビはランディングできないのだから、ソフトランディングではなくハードディスラプションだけが起こるのだと思う。

私は2011年に「テレビは生き残れるのか」と題した本を出した。結論は、ネットを活用すれば生き残れる、というものだった。だがテレビはその未来を選ばなかった。生き残れない、という選択を自らやってしまった。今年はそこに至る苦い展開ばかりが起こるだろう。

いつも前向きなメッセージを心がけてきたが、どうしてもそれができない2020年の幕開けとなってしまった。それでも前向きになろうと思うのは、地域とメディアの未来を考えたいからだ。そこにだけは輝きはなくても希望が残る未来を描けると信じている。

 

 

 

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