9月28日に千代田放送会館で行ったA-PAB(一般社団法人 放送サービス高度化推進協会)会員社向けの講演の抄録を2回の記事でお届けした。
→テレビはネットでメディアになれているのか?〜A-PAB講演より・その1〜
→テレビはネットで広告メニューを増やすべきではないか〜A-PAB講演より・その2〜
この記事は「その3」として、最終パートをお届けしよう。テーマは、”信頼性”だ。
「その1」では、テレビがまだネットでは“メディア“になれていないので、「いま何が起こっているか」に答えられるメディアになるべきだとした。「その2」ではネットでもメディアであることで、新たな広告メニューが開発できるのだと説いた。
そして「その3」はネットでもメディアとなり広告の新メニューで稼ぐためには、信頼性がこれまでより問われるのだ、という話をしたい。
スマートフォンが年配層にも普及してきて、ネットはいまや日常最もアクセスしやすいメディアデバイスになった。そして意外にも、それがもたらす情報の洪水に人びとが戸惑い、またその情報に疑いを持ちはじめた。フェイクニュースは誰しも気になるテーマになり、ネットより旧メディアのほうがむしろ信頼できるとの思いを、人びとが新たにしはじめている。
そんな人びとのモヤモヤを決定づけたのがWELQの事件だろう。そしてネットでも信頼を失うとメディアとして閉鎖に追い込まれることもあらわになった。ネットだからいい加減でもいい、という不文律はもはや崩壊したのだ。
だから旧マスメディアを頼りにするようになってよかった。そう、ぬか喜びしている場合でもない。逆に、だからこそこれまでより信頼性が問われるようになっていると受けとめるべきではないか。
ネットが普及する前、90年代までは新聞が”まっとうなメディア”であり、テレビは”やんちゃなメディア”だった。しっかり者の新聞がいてくれる分、テレビは少々いい加減なことをしても許された。しょうがないなあ、まあテレビだから仕方ないか。そんな空気が確かにあったと思う。だからこそ、若者中心のメディアでいられた。
だがネットが普及すると、その関係が変わった。テレビは新聞とともに“しっかり者”を演じる必要が出てきた。どんなにこれまで通りやんちゃにしても、ネットのアナーキーさにはかなわない。むしろコンプライアンス意識の発達で、自らも“しっかり者“をめざさざるをえなくなったのだ。
これまでとはちがうポジションを自覚しないと、WELQのようになりかねない。だがテレビはそうした自覚が足りないように思える。むしろ、ネットとの“話題づくり競争“でネットに遅れまいと、ネタを見つけるとそこに殺到する傾向が出てきた。その典型が、“不倫報道”だ。
これは筆者がYahoo!に書いた記事だ。不倫報道の量を、テレビのメタデータを作成するエム・データ社に依頼して調べてもらったら、昨年初めの「ベッキー騒動」を境に驚くほど増えていた。明らかに過剰状態が続いているのだ。
こんなことを続けていては、信頼性が失われかねない。せっかくいま「ネットよりテレビの方がちゃんとした情報なんじゃないか?」という空気があるのに、それを自らぶち壊しにしてしまおうとしている。これをどうとらえ、どうするべきだろう?
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